北アジア、東欧に位置するロシア連邦には、ロシア正教会と密接に関連し、ロシア知識人が埋葬された著名な歴史共同墓地とモスクワバロック式建築の豊かなインテリアと貴重な壁画や芸術品を保持する「ノヴォデヴィチ女子修道院群」、中世の歴史的構造の要素を取り入れたロシア建築の発展を代表する都市計画モデル「ヤロスラヴリの歴史地区」など、中世~帝政ロシア時代までの伝統的な文化を示す華麗な建造物が立つ美しい街並みに、宮殿、ロシア正教の教会、修道院などの象徴的な世界遺産(文化遺産)が引き継がれています。
ノヴォデヴィチ女子修道院は、モスクワ川を横断するモスクワ市の南西に位置、1520年代にデューク・ヴァシリー3世(Duke Vasily III、1479年~1533年、在位:1505年~1533年)により、クレムリンに近接する防御システムに組み込まれた修道院(要塞)ネットワーク全体の一部として設立。
ノヴォデヴィチ修道院の建造物群は、聖堂、4教会、鐘楼、バルラアムのヨザファト教会と2つの礼拝堂、居住及び奉仕用建物など、14の建物から構成されています。
ヤロスラヴリの歴史地区は、モスクワの北東250km圏内、コトロスリ川とヴォルガ川の合流点に位置、キエフ・ロシアのグランドプリンスと知られたヤロスラフ1世(Yaroslav the Wise、978年頃~1054年、在位:978年~1010年)が設立。
小さな木製の要塞は、13世紀まではロストフ公国の領土に付属、モンゴル侵攻と支配を経て、ヤロスラヴリがモスクワ大公国に統治された1463年から開発、いくつかの大火でオリジナル木製の町は荒廃、16世紀から徐々に石で再建されています。
ノヴォデヴィチ女子修道院は、時々「ミニチュア・モスクワクレムリン」と示唆され、イワン雷帝(イヴァン4世、1530年~1584年、在位:1547年~1574年、1576年~1584年)、17世紀初頭のボリス・ゴドゥノフ(1552年~1605年、在位:1598年~1605年)の動乱時、アレクセイ・ミハイロヴィチを父とするピョートル大帝(ピョートル1世)と王女・ソフィア・アレクセエヴナとの熾烈な権力闘争、1812年のナポレオンのロシア侵攻に対する祖国戦争など、ロシアの主要な政治、文化、宗教などの歴史的イベントに密接に関連し、クレムリンとつながりを持つロシア歴史上の重要な人物に結びついています。
16~18世紀、ノヴォデヴィチ修道院は、王家や裕福な大貴族、高貴な家庭の女性がベールを取るために選択した女子修道院。
英語表記:Ensemble of the Novodevichy Convent
所在地:モスクワ N55 43 34 E37 33 18.3(緯度 経度:度分秒)
登録基準 (i)(iv)(vi) 2004年登録
モスクワ(Moscow) 主な観光地
ノヴォデヴィチ女子修道院(Novodevichy Convent) N55 43 34.3 E37 33 23.0 ※ ⇒ Google Map
ヤロスラヴリの歴史地区は、18世紀末に女帝エカチェリーナ2世(Empress Catherine the Great、1729年~1796年、在位:1762年~1796年)が追求するユニークな都市計画の改革の一環として、定期的な都市再開発を対象とした中世ロシアの都市計画開発の代表的な例とされ、最も古くから豊かに発展したロシアの都市で保存のよい都市開発の中核を成す一つと評されています。
歴史的環境の保全と空間の整合性を確保する都市開発の問題点を解決したヤロスラヴリの歴史地区は、歴史的建造物の古代要素を有機的に取り入れた新古典様式の都市計画分野の認識モデルとされています。
英語表記:Historical Centre of the City of Yaroslavl
所在地:ヤロスラヴリ州 N57 39 10.008 E39 52 33.996(緯度 経度:度分秒)
登録基準 (ii)(iv) 2005年登録
ヤロスラヴリ州(Yaroslavl) 主な観光地
ヤロスラヴリ(Yaroslavl) N57 37 24.0 E39 51 49.8 ※ ⇒ Google Map